旅するデザイナーとマフラー

日常の備忘録。そしていつかする旅にむけて。

建築への無関心さ - ディラー・スコフィディオ+レンフロの言説を読んで

f:id:abingdonelinika:20190530164146p:plain

https://dsrny.com/project/mile-long-opera

shinkenchiku.online

 今月の雑誌「a+u」がディラー・スコフィディオ+レンフロ(Diller Scofidio + Renfro)の特集をしていた。

と言っても彼らのことはこの雑誌を見るまで全く知らなかった。それでも記事としてとりあげようと思ったのは、雑誌中にあった彼らのインタビューから感じ取れる彼らの生き様とものづくり感に大きく共鳴を受けたからだ。

 

以下気になった言説の抜粋

 

 リカルド・スコフィディオ

「その頃の私にとって、建築はとても閉鎖的なものでした。建築の仕事は、きわめて定型化されたやり方で進められてきました。偉大な孤高の存在という巨匠建築家の世界から逃れてきましたので、建築の仕事を始めた頃には、この世界に身を置くことはどちらかというと息苦しいことでした。」

 

 

ベンジャミン・ギルマーティン

 建築家になりたいのかどうか、私には今もよくわかりません。私は建築と並行して、英文学と執筆を学んでいました。私はずっと、この2つの思考様式の間には共通する部分があると感じてきました。建築は常に、紙の上の1本の線から始まります。しかし引かれた線はすぐに、様々な側面から批評にさらされます。執筆と言語の世界で、何が有効で、何が役に立っていないかを見つけ出すことは、ドローイングと空間を扱う仕事にそのまま対応しています。そういう意味でこれらは、互いに役立ち得るものなのです。執筆は批評的なツールにとどまるものではなく、初期の直感を超えてデザインについての対話を深めていくツールだと思っています。大学を卒業するまでは執筆を仕事にするつもりで学んでいたのですが、時の縁で建築に導かれました。建築は私にとってのはじめての仕事となり、それ以来、おそらくこの世界の永住者としてではなく、ある種のゲストとしてこの場所に身をおいています。

 

 

建築・ファッション・インスタレーションなどを隔てずに制作し、表現していることがすごい気に入った。

 

 建築はあくまで問題解決の一手段でしかないということ

私の経歴が他の建築学生と大きく違うのは、私が「建築」のみを学んできたわけではないということだ(少なくとも私はそう思っている。)。

「建築」を学び、住宅設計等の設計課題をこなしてきたのに加えて、プロダクトやグラフィック、システム・サービスも含む広義の意味での「デザイン」も学び、設計課題として提案を行ってきた。

広義の意味での「デザイン」を授業で学んできて面白いのと思ったのが、課題解決の方法が人によって大きく違うというところだ。

「今までにない価値を与える未来のお店」

というテーマに対し、あるる人はショップ空間で解決し、ある人はアプリで解決し、またある人はシステムで解決したりする。

「今私はデザインを学んでいる」と説明すると、特に建築学生からはプロダクトデザインを学んでいると解釈されることが多いが、それは違う。

私は「デザイン」を学んでいる。

けれどもどうやら「デザイン=プロダクト」という図式が彼らの中にはあるらしい。

なぜだと考えた時に、これはあくまで私の偏見だけれども、建築学科では各課題ごとに設計しなければいけない建物が規定されていることもあって、建物をつくるという大前提はぶらすことがしづらい教育になってしまいすぎているのかなと思う(一介の大学院生が何言ってんだ...という話だけれども....)。

まぁ建築学科を建築学科たらしめるのは、あくまで建物で世の中の課題を解決するということだから、それもしょうがないし、悪いことではないのだろうけど。

ただ少なくとも自分は、比較的早い段階で「デザイン」の持つ意味や問題を解決するための表現の幅の広さに気付けたことは良かったと思うし、「建築」というものをただの問題解決の一手段としか捉えていないからこそ、ディラー・スコフィディオ+レンフロみたいに色んな表現をもった彼らのやり方は実に合理的だし、憧れるのだと思う。

 

彼らのHPはこちら↓

dsrny.com